何故こんな事になってしまったのだろう。そう思ってみたところで、状況が変化することなど有り得ないのであって。
ため息を吐きながら、雲雀は50m走のスタートラインに立った。
……あぁ、本当に何で自分がこんな事をするはめになっているのだろう。この時間は校内の見回りの時間であるはずなのだけれども。それなのに一体どうして、半袖短パンの体操服を見に纏うはめになっているのだろうか。
なんて考える必要など無く、理由は既に明らかになっていた。
自分の隣で笑顔を浮かべている見も知りもしない並中生を一瞥して、不機嫌さはそのままに口を開く。
「何のつもりなのかな」
「たまにはいいじゃないですか」
「良く無い。こんなのに出る気なんてないし」
「……一応貴方も中学生でしょう。授業に出ないとか言って良いんですか」
呆れたように細める目の片方の、その中に浮かぶ『六』の字を視界の端に映し、雲雀はふいと顔を逸らした。彼の顔や目どころか髪の一本たりとも視界の中に入らないように。
「放っておいて。というかどうして君がここにいるの」
「暇なんですよ。牢獄暮らしって」
「で、その身体って」
「分かってるでしょうけど、クロームのですよ。幻術で顔や体格は変えて見せてます」
「ふぅん。よくやるね」
「言ったでしょう。暇なんです」
肩をすくめたのが気配で分かって、眉間にしわを寄せた。顔が見えないように顔を逸らしても、気配で様子が伝わってしまっては意味が無い。
何でこんなにこいつは鬱陶しいのかと、クロームの身体を使っている骸の事を思い、今すぐ咬み殺したくなった。やってはだめだろうか……いや、別に良いがする。
ただ、その際問題となるのはやはり、これがクロームの身体であるらしいと言う事。
……なのだけれど。
まぁ死にはしないだろうから良いかな、なんて、そろそろ我慢の限界である雲雀は思っていた。思ってしまっていた。が、幸いと言うべきか不幸と言うべきか、流石に半袖短パン状態ではいつものようにトンファーを隠し持つような事が出来なかった。ちなみに体育の授業中だからという事で指輪も外している。
よって、今、雲雀は見事なほどに丸腰だった。
だからといって敵に向かわずに済ますと言う選択肢を取る気は無いし、やるからにはとことん咬み殺さなければ気が済まない。しかし、とことん咬み殺そうとした場合、トンファーが無いのは少し痛い。
体育の授業が終わった後で思う存分片付けよう。
結局そんな結論に至り、雲雀は、とりあえず目の前の勝負事を片付ける事にした。
それはすなわち50m走。
面倒でもこんな授業に出ているのは、全て骸が挑発して来たからであり、この競争もまた彼に挑発されたから参加を決定したものだ。彼の思惑通りに動くのはしゃくではあったが、これは、こうでもしないと完全に叩きのめすのは難しいと判断しての事。思惑に乗ってなお、勝負事で圧勝してやれば彼の自信もぽきりと折れるだろうと思ったのだ。
今に至るまでの流れをそこまで辿り終えた後、逸らしていた視線を今回の競争者の方へと向けた。そうして見えた不敵な笑みに目を細め、言う。
「じゃあ、そろそろ始めるよ」
「望むところですね。今日こそ君のプライドを叩き折ってあげましょう」
「それはこっちのセリフだよ」
ぱち、と火花が散る。
今度は逸らしては負けだと言わんばかりに互いを睨みつけ合いながら、雲雀は、傍で何故だかガクガクと震えていた一般生徒に声をかけた。
「ねぇ、そこの君」
「はっ…はい!」
「スタートの掛け声、よろしく」
一方的にそう言って、雲雀はゴールまで一直線に伸びる、二本の線で作られた路に向き直った。たかが50m、されど50m。骸が幻術による妨害行為を行うとすると、一回や二階では済みそうにもない距離である。
それでも勝つのは自分だと、静かに始まりの声を待つ。
待つ事、数秒。
「よっ……よーい、どんっ!」
一般生徒の掛け声によって火蓋は切って下ろされた。
その声が絶えるか絶えないかのタイミングで、勢いよく地を蹴った。少しでも距離を稼いで妨害の回数を減らそうと思ったのである。けれども。
後ろから『どがっ』という音が聞こえてきて、思わず振り向いた。
そうして見えた光景に走る気は失せ自然と足は止まり、対象と10m以上離れた場所から、呆れと共に声を投げかけた。
「君さ、馬鹿だよね」
そこにはスタートダッシュを失敗して地面と挨拶をしている、競争相手の姿があった。
この一連の流れで一番疲れたのはきっと、名もなき一般生徒でしょう。