08:あなたに告げる
「兄様、城下へ行きたい、です」
妹の唐突なその言葉に、思わずスラスラと滑らせていた筆を止める。
それから妹の方へと目をやると、彼女は、控えめながらもどこか期待に満ちた目でこちらを見ていた。どうやら肯定されるのを待っているらしい。
彼女は普段、自分からすれば妙だと思える程に大人しく、何をするにもおどおどとしていて、我を主張する事が殆ど……否、全くと言って良い程に無い。自分から何かを提案したことなど、数えるほどしかないのではないだろうか。
そんな妹が、自分に頼み事をしてきている。
珍しい、という言葉では表しきれない展開だった。
そんな事態だったからか、何となく彼女の言葉に興味が湧いて、持っていた筆をとん、と机の上に置く。肯定は未だしてやる気はないが、真面目には聞いてやろうと思いながら。
こちらの態度を見てその辺りはくみ取ったのか、少し表情を明るくして、妹は先ほどよりもどこか弾んだ調子で言葉を紡いだ。
「さっき、廊下を通ってる時に、誰かの話し声が聞こえて。何だろうって思って声の方に近寄ってみたら……えぇと、今日、城下でお祭りがあるんだって言う話を、してて」
「祭りか」
「……はい。行った事無いから、行ってみたいと思って……駄目?」
「止めなどせんから一人で行け」
「……うぅ」
彼女の望んでいた通りに肯定をしてやったら、半泣きの表情をされた。
……一体どうしろというのだ。
みるみるうちに妹の目に溜まってく液体を呆れ眺めながら、息を吐く。
「一人が嫌なのか」
「……はい」
「俺について行けと言うのか」
「……出来、れば」
「出来れば、か」
ぐずぐずといいながら、それでもじぃ、とこちらを見つめる真っ直ぐな瞳に辟易しつつ、さて、と二つの物……妹と、紙とを見比べる。
さぁ、どちらを取るべきだろうか。先ほどからずっと筆を走らせていたあの紙は父親からの『宿題』という扱いになるため、そう蔑ろにして良いものでもない、らしい。一方、妹は今にも泣きそうだが、けれども行ってしまえばそれだけで、正直放っておいても特に問題は無い。鬱陶しくなれば部屋からつまみだしてしまえば良いだけの話だ。
そう。考えるまでもなく、どちらを取るべきかなど分かり切った事なのである。
しかし。
「……ならば誰にも見つからずに門へ行き、誰にも見つからないように隠れていろ。用意が出来たら俺も行く。合流したら城下に降りるぞ」
「……え?ほ……本当……?」
待ち望んだ言葉であろうに、それが与えられる事が直ぐには信じられないらしい。唖然とした表情でこちらを見返してくる妹に、軽く口の端を釣り上げながら言う。
「何だ、嘘の方がいいのか」
「う、うぅん!そんな事無いよ……!」
そんな事は無いと知りながらも尋ねると、彼女は慌てた様子で何度も何度も頭を横に振った。不必要過ぎるほどに必死な表情で、酷く酷く焦った様子で、である。……よっぽど一人では一緒に城下へ行きたくないらしかった。
妹のそんな様を、ふん、と鼻で笑いながら、彼女の額をピンと弾く。
「ならば何も言わずに行け」
「う……うん!」
首がもげるのではないかと思わせるくらいに勢いよく、今度は縦に頭を振って、妹は風邪のような速度で部屋を出て行った。どたどたと喧しく耳に届く足音に、やれやれと肩を竦める。あれで、誰にも見られることなく門まで辿りつけるのだろうかと少々心配になるが、恐らくそれは不要な感情だろう。
そのくらいは何を考える事もなく何を気を付けることもなく、簡単に実行できるはずだ。
ああ見えて、あれは彼女は自分の妹なのだから。
筆や墨を片付けながら薄く笑みを作り、ちらりとその半分を墨の黒で覆われている白い紙に視線をやる。
明日までに仕上げろと言われている物なのだが、恐らく、妹に付き合い城下に降りていては完成させることなど出来ないだろう。そうなれば父は怒るかもしれないが、生憎と、自分は己の父に恐れなど抱いていない。あんなものに恐れなど抱けるわけが無い。故に、怒鳴られた所で自分は何の恐れも抱かないだろう。ただただ煩いだの喧しいだのと思いながら、投げられる言葉を受け流すに違いないのだ。
そんな自分が想像できたからこそ、今回の妹からの提案を受けるつもりになったのかもしれない。いや、もしかしたら想像できていなかったとしても、受け入れたかもしれない。彼女からの提案、という珍事は、それくらいの効果は持っているだろうから。
それに、まぁ。
「妹の願いを聞き入れるのは……兄の役目だろうしな」
言って、背中がなんだか痒くなった。やはり自分でも似合わないと思う様な事は、わざわざ口にはしない方が良いらしい。
小さい時くらい仲良くしてたらいいじゃんか!というわけで。