『風が回る』という響きを名に持つ街。
名を、『界風』という、活気に溢れ、人と妖とが共存しているという場所。
そこの入り口に、いつきは身の回りの物一式を持って立っていた。
今日から、自分はここで住んでここで働くことになっている。働き先は、親戚の知り合いの前田、という人間たちがやっている茶屋だそうで、住む場所もまた、そこ。つまりは住み込みで働くのだと言うこと。
けれど。
正直、こんな賑やかな街は、見たことがない。
従って、何となく、圧倒されてしまって一歩が踏み出せないでいた。
街の中にいなくても分かる。街の中では威勢の良い声が響いて、楽しげな人々の笑顔が溢れかえっているのだ。全員が善人というわけにはいかなくても、だいたいの人がいい人で、そんな事柄を根底にして街が成り立っている。
気持ちの良い街だろうとは思うのだが、雪国の方で里と呼ばれるような場所で暮らしていたいつきとしては、この賑やかさは未知の物だ。嫌いではないけれど、躊躇うくらいは。
しかし、こんな場所に立っていても始まらない。腹を決めて、いつきは足を一歩ほど踏み出した。
そのまま入った街の中は、本当に思い描いたとおりの世界だった。都とか呼ばれる場所は、きっとこんな様子なのだろうと思うくらいに賑わい、平和な場所。
ここでは飢えて死ぬこともないのだろうと道行く人を眺めながら歩いて……ふいに、衝撃。数秒間何だか分からなくて、それからハッとした。人にぶつかったらしい。
慌てて飛び退いて、ぺこりと頭を下げた。
「すまねぇだ!おら、よそ見しちまって…」
「あぁ、気にすんなよお嬢ちゃん。俺も注意散漫だったしな」
「けども」
「あー、もう謝り合うのは止めないか?代わりに名乗り合うってことにしようぜ」
「名前だべか?おらは、いつき」
「俺は前田慶次」
「前田…?」
どこかで聞いたことがあるような名前に、少しだけ眉を寄せる。
一体どこでと、考えれば直ぐに分かった。
「前田の茶屋!」
「ん?利とまつねーちゃんの店に何か用?」
慶次の言葉から当たりだったのだと分かって、いつきは少しホッとした。よく考えると、自分はその働く店の場所も知らなかったのだ。知っている相手にぶつかってしまったとはいえ、出会えたのは幸運だったといえるだろう。
そう考えている間に、慶次の方も思い当たることがあったらしい。あぁ!と手を打っていつきの事を指さした。
「アンタがまつねーちゃんが言ってた新人さん?」
「多分そうだべ。明日から働くことになってるだ」
「そっかそっか。なら当たりだな。ってことは何だい?今から前田の茶屋に行くのかい?」
「そうだけど、茶屋の場所が分からないんだべ…案内してくれねぇか?」
頼んでみると、彼は気前よく頷いた。
「うん良いよ。これから一緒に働く相手だし、そのくらいお安いご用さ」
「おめぇも働いてるべか」
「時々手伝いにだけど。それ以外はだいたい街をフラフラしてる」
何とも見た目から感じる感じピッタリの過ごし方だ。
人は見かけによらないと言うが、それと同じだけ見かけによるのだと思いながら、とりあえずいつきは案内を始めた慶次の後を追いかけることにした。頼んだのは良いものの、ちょっと油断をしたら直ぐにはぐれてしまいそうだから気をつけよう。
隣に並んで慶次に茶屋までの距離を訊くと、ほんの少し歩くのだと返された。
親戚には茶屋は入り口から近くもなく遠くもないところにあると言われていたので、ほんの少し訝しく思う。ほんの少しよりも少ない時間、歩く物だと思っていたのだけれど。
「遠いだか」
「いんや?遠くはないけど遠回りするから」
「何でだべ?」
「界風、初めてだろ」
界風といえば、この街の名前。
それなら確かに初めてだ。頷くと、だから案内をする、と言われた。
「この街の良いところを俺が教えてやるよ」
「良いんだべか!?」
「もちろんさ!この街は良いところだからさ、たくさんの人にたくさんの良いところを知ってもらいたいんだ、俺は」
慶次は、そう言いながら本当に誇らしげに笑った。
彼はとても街を愛している。いつきにはそれがよく分かった。そうでなければこうやって、とても誇らしげに出来るわけがない。同時に、街が素晴らしくなければこんな誇らしい顔をさせることも出来ないわけで。
それだけで、この町の素晴らしさを知ることが出来る気がした。
「最初はそうだな…適当にフラフラする?」
「それで案内になるべか?」
「なるって。むしろそうした方が分かりやすいってもんだろ」
そんな感じで始まります。