その日、いつものように今現在の勤務先である例の事務所まで出勤してきた波江は、部屋の中の光景を見て軽く眉を寄せた。
そこに、いるべき人間の姿が認められなかったからではない。雇い主が何の連絡も無く事務所を開けるのはこれが初めてというわけではないし、眉を寄せる程の事でもない。もちろん多少の不快感こそ覚えるが、そんな事を気にしていては彼の助手もどきなどやっていられないというのが現状である。
問題は、ここに、いるべきではない存在がいるということだった。
彼女は、ソファーに座っていた。その前に在る足の短い机の上には何も置かれていない。紅茶も、コーヒーも、茶請けとして用意してある菓子も一つも存在していなかった。それが、彼女がつい先ほどこの場所に訪れたからなのか、何がどこにあるかが分からず仕方が無いから何もしなかったからなのかは知らないが。ちなみに、遠慮して、という選択肢は無きに等しいので考えない。彼女と雇い主の仲の険悪さを考えれば、むしろ家探しをしていない方が意外と言うほかないのだから。
しかし、ともかくだ。そんな彼女がこの場所にいるという事実が、波江にとっては全くあり難くない。幸い、というべきなのか雇い主はいないし、今すぐ問題が起こる事は無いだろうが、しかし彼が出勤して来てしまったら喧しい事になるのは目に見えている。
正直、喧しいのはあまり好きではない。賑やかさよりは静けさの方が好ましいし、度を過ぎた騒々しさは鬱陶しいだけだ。彼女が雇い主を攻撃する様は見ていると爽快な気分にはなれるものの、それに付随する喧しさはあまり歓迎できるものではない。
だから、今回ばかりは雇い主がいない事に対する不快感には目を瞑ろう。
そう思いながら、波江はソファーに座ったままの少女に声をかけた。
「何の用かしら」
「……あぁ、貴方……矢霧波江、だったかしら?」
「えぇ、そうよ。罪歌」
振り返り自分の姿を認めた元・妖刀に、頷きを返す。
どうやら自分に声をかけられるのは想定外だったらしく、罪歌は若干虚をつかれた表情をしていた。ぱちぱちと何度も瞬きをして、こちらを見上げてくる。
が、直ぐに気を取り直したらしく、一変して涼やかな表情を浮かべ、彼女は口を開いた。
「……まぁ、良いわ。元々貴方に用事があったのだから、この状況は歓迎すべきね」
「私に用事?」
「その通り。正直、先に臨也と遭遇すると思ってたから戦闘準備もしていたのだけれど、どうやら不要だったようで幸いだわ」
こちらの疑問を無視して語りつつ、彼女は抜き身状態の日本刀を一本、かざして見せた。
それがどんな意味をもつ物かなんて事は、最早問う必要もないだろう。
あれは、妖刀『罪歌』。切りつけた相手と『子』を成す、人を愛する刀。
もしもあれで今、自分が攻撃されたら自分はきっとろくな抵抗も出来ずに倒れるだろうと、ふと思う。彼女は何百年と存在し続ける、本来は刀の形をしている異形であり、生まれて数十年の自分とは比べ物にならない程の経験をしているはずだ。……あぁ、いや、違うか。彼女の方が経験が上というのは間違いないにしても、攻撃というのは正確ではない。
彼女にとって、切り裂くのはあくまで愛情表現。
攻撃は攻撃では無く、それは好意を示すだけの行為なのだ。
もしかしたら、ソファーに座っている彼女を見た瞬間、踵を返して帰るべきだったのかもしれない。彼女の存在理由は『人間を愛する事』。ならば、今、自分が切られない理由は何一つとして存在しないのだから。そんな懸念を抱きながらも、特に不安は覚えてはいなかった。なぜなら彼女は言っていたから。
自分に用事があると。
「で、私に用事って何かしら」
言いながら、波江はソファーの前側に回り込み、刀を持ったままの罪歌の隣に腰かけた。
対して罪歌は、刀を体の中にしまいこみながら、口を開く。
「ちょっとした恋愛相談なのだけれど、のってくれないかしら」
そうして零された言葉に、今度はこちらが虚をつかれた。
人間を愛している、そしてその愛の方向性も既に定まっている彼女が、一体恋愛についての何を自分に相談しようというのだろうか。むしろ、存在してきた期間を考えれば、自分の方が彼女に相談を持ちかけるのが筋のような気もするのだけれども。
まぁ、ハッキリ言ってしまうと。
冗談のようにしか思えない。
「恋愛相談?」
「恋愛相談よ」
だから一度訊き返して見たら、あっさりと肯定が返された。
どうやら本気らしいと、ここでようやく認め、居住まいを正す。人を愛する事を知っている身としてはやはり、そういった恋や愛に関する事柄に手を抜こうとは思えなかった。たとえそれが、赤の他人のあれこれであっても、自分を頼ってきたのならば。
「それで、私に一体何を訊こうというの?」
「大好きな相手に、一体何をしたら振り返ってもらえるのかしら」
「相手が喜ぶ事をしてあげたらどうかしら」
「それはもうしたわ、多分。私が、というよりも、私の『子供』たちが、という方が正しいのだけれど」
彼女のその言に、あぁ、と、息を吐く。
「相手は平和島静雄ね」
「当然でしょう」
確認のために呟いた言葉に、何を今更と言わんばかりに答えられた。
彼女にとっては、今更なのだろう。確かに、愛の方向性が決まっている彼女が、愛に関して悩む事があるとしたらそれは彼に対してのことだろう。何せ彼は、彼女が……否、彼女の『子供』たちが愛しきれなかった存在なのだから。『子供』たちの『親』である彼女が相手をすれば、あるいは愛しきることも可能なのかもしれないが、そうでない可能性も高いのだから彼女だって考えたりもするはずだ。
しかし愛し方など本来なら一つしか知らなかったはずの彼女である。困り果てて、自分の所に来たということだろうか。
宿主の少女に相談するつもりは無かったのかとは言わない。出来なかったから今、こうして彼女はここにいるのだろうから。
そして、折角頼って来てくれたのだ。
少しは、期待に添おうという気にもなってこようものだった。
「それなら、やはり好意を口にし続けるのが一番なのではないかしら」
「好き、とか、愛している、とか?」
「そうよ。多分、それが一番彼にとって嬉しい事でしょうし。……それ以外だったら、彼が落ち込んでいる時に何も言わずに傍にいてあげるというのも有効かもしれないわ。というか、彼が嫌がらない程度にいつも一緒にいるというのが良案なんじゃないかしらね。ただ、鬱陶しがられる様な事をしては駄目だとは思うけれど」
「成程……じゃあ、私はいままでどおりの私でいればいいのかしら」
「そう言う事になるかしらね」
頷いて、あぁ、でも、と付け加える。
「たまに可愛い服を着てみたり、手料理をふるまったりするのも良いと思うわ」
「手料理か……杏里には、とてもじゃないけれど教えを乞えないわね。杏里の友達の……えぇと、美香、だったかしら、」
何気なく罪歌が零したその言葉に、ぴく、と肩が揺れた。
それに気付く事無く、彼女は言葉を続ける。
「あの子に、教えてもらおうかしら」
「……あんな子に教わって上達するよりは、今のままの方がいいと思うけれど」
「……?」
押し殺した殺意と共に呟いた言葉に、罪歌が不思議そうな表情を向けてきた。張間美香に対する恨み妬みは完全に内に押し込めたはずだが、やはり愛を歌うとはいえ『刀』でもある彼女だ、そういう感情には敏いのかもしれない。
「……ともかく、張間美香に教えを乞うのはやめなさい。そんな事をさせるわけにはいかないわ。料理の腕を上達させたいというのなら私が教えるから」
「あら……良いの?」
「構わないわ」
あんな女に師事させるくらいなら、そちらの方が断然良い。
そう思いながらの言葉に、罪歌は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、お願いするわね」
杏里は、愛することを…な少女なわけで、やっぱり相談するなら波江さん方面なのだろうかとかとか。少なくとも狩沢さんのところへは行かないでしょうがね…。