「……おや?」
テーブルの上に視線をやって、骸は首を傾げた。
そこには、花瓶もカゴも何も無い。自分は普段からテーブルの上にはあまり物を置かないし、子供たちは背丈故にこのような高めの場所に物を置く習慣も無いから、それは平常通りの光景ではある。が、今日ばかりは平常通りの光景であっても異常な光景になるのだ。
おかしいと思いながら、ソファーに座ってテレビを見ている雲雀の方を向く。
「恭弥、ここに置いてあったハードカバーの本、知りませんか?」
「知らないよ。僕は取って無い。取って行ったのは凪の方だよ」
「凪が?」
その言葉に驚いたため、何度か瞬いて。
それから、改めて尋ね直す。
「本当ですか?」
「本当だよ。ここで嘘を言ってどうするのさ」
「それもそうですけれど、でも、凪ってあの手の本、読めるんですかね……」
凪は幼稚園生で、なおかつまだ年少の身だ。絵本を開いてたどたどしく呼んでいる様がとても似合うような年ごろの少女なのである。それが、大人である自分が読もうと思って出していたハードカバーの、活字しか無い、しかも少々特殊な本を読み進める事が出来るのかというのは、まぁ、考えるまでもなく普通ならば結論が出るだろう。
そしてそれに関してはどうやら雲雀も同じように思ったらしく、少々あきれた表情を浮かべて息を吐いた。
「それは僕も思ったから、ページ捲りながら凪と一緒に中身見てる時に訊いてみたよ。そうしたら、頑張ってみる、って返された」
「頑張ってどうこう出来る物でも無いはずですけれど」
「貴方と同意見なんてとっても嫌な事だけれど、同感だね。僕も無理だと思うよ」
さらりと告げられたその言葉に、ぴしりと体が固まったのが分かった。
じっくりと数十秒、石の様に思考を停滞させてから、どうにか人間に戻れた骸は気を取り直す為に、深呼吸する事にした。
吸って、吐いて。もう一度吸って、吐いて。
……よし、これで大丈夫。気は持ち直せた。
それでもどこか憂鬱げな何かが胸の中でもやもやとしているのを感じながら、歪んではいるものの、どうにか笑顔と形容できる表情を浮かべて雲雀に話しかける。
「……ですからね、恭弥、日常会話の中にとげを含ませることだけはお願いですから、止めていただけませんか?貴方のその言葉たちに、一体何回傷つけられたと思ってます?」
「両手で数えるのが不可能なくらいには確実に傷つけてるだろうね」
「自覚があるなら態度を改めてくれません?」
「いや無理」
頼んだら即答された。
まぁ、予測通りと言えば予測どおりなのだけれども……何だろうか、この、予測通り過ぎて逆に泣きたくなってくるこの状況というのは。
このやり取りが慣れた事であるとはいえ、いや、慣れた事だからこそ慣れてしまったという事実にさらに打ちのめされそうになるのだが、頬を引きつらせながら耐える。反論あるいは嘆願したら、きっとさらなる追い打ちをかけられるだろう。だから、心に負った傷が大きくも浅い状態を保たなければならない。大きく深い傷を与えられたら、恐らく自分は立ち直れないはずだ。ちなみに傷が無い日と言うのは滅多に無いので、敢えてカウントに入れない。
雲雀によって立ち直れない程に心へ傷が与えられる日が来ませんように、と心の中で祈りながら、ところで、と話を変える。
「凪は、一体いつ本を持って行ったので?」
「十分前くらいだね」
「ということは、そろそろ飽きるか眠くなる頃でしょうか」
「あの本って枕に丁度良さげな大きさだったし、寝てる可能性の方が高いと思うよ。部屋にいると思うから、気になるなら行ってあげれば?」
「おや、恭弥は来ないのですか?」
「僕は今はテレビ中。後で凪にどんな番組だったか噛み砕いて教えてあげる約束してるからさ、すっぽかせないんだよね」
「そうですか」
相変わらず子供たちは仲が良いようだった。
その様子にくすりと笑みを浮かべ、たったそれだけのことで先ほど負ったはずの傷が完治してしまったところが本当に自分らしいと、笑みを苦笑に変える。
しかし専門家が延々と喋っているだけらしいテレビ番組の内容を、一体どうやって噛み砕いて教えてやるのだろうか。あんなもの、小学生でも中学生でも高校生でも、へたをすれば大学生でも分からない気がするのだけれども。
ちらりとテレビの中で小難しい単語を使って何事かを説明している学者らしい人物へ視線をやってから、それを雲雀の方へ移す。
「では凪の様子を見てきますね」
「うん。もしも起きてたら、何でとてつもなく厚い上に外国語で書かれてる本を読む気になったのか、っていうのを訊いといて」
「分かりましたよ、では、また後ほど」
「うん。出来るだけ遅く戻って来てね」
ひらりと手を振った雲雀の言葉に、うっすらと笑って頷いた。
「えぇ、凪と一緒に、戻ってきますよ」
出来るだけ遅く戻ってきてね→つまり、戻ってくるなとは言っていない。
精一杯の譲歩というか素直さというか。そんな感じです。