ぴん、と張りつめた空気が室内を満たしていた。
それは肌を指す様なものであったが、決して居心地を悪くする物では無い。何十回と遭遇し慣れ親しんでいるこの空気は、ほんの少しの落ちつきと程良い緊張感を自分に与えてくれる。この場にいるだけで身が引き締まる様な気がするのだ。
背筋を伸ばし、眼前の盤を見下ろしながら月英は思う。
果たして、自分にこの様な雰囲気を作り出すことが出来るだろうか。勝負に対する真剣さなら負けるつもりは無いし、向上心だって持っているつもりだけれども。それだけで、これ程までに視線をくぎ付けにするような試合を行う事が出来るだろうか。
答えは、否だ。
何故かと言えば答えは簡単。今のこの室内の状況は、全て、彼ら二人が向かい合っているからこそ作りだされる物だからだ。
例えば自分と、自分と同じかそれ以上に試合に真摯に打ち込む誰かが向き合っていたとしよう。確かに真面目に腕を競い合おうというのだから、集中はするし、空気には緊張感が漂い出て行くだろう。しかし、自分と誰かの場合、それはそこで終わり。理由はといえば、これまた簡単な事。自分と誰かには、彼らほどの結びつきが無いのである。
彼らは互いが互いを認め合い、互いの上に行こうと日々努力を重ねている。その結果を発揮しようと向かい合っているのだから、他の誰と試合する時よりも身が入るのは当然であり。常に全力であり、常に全力を超えようとしているからこそ、空気はここまで張りつめるのだ。
彼らのそんな関係を、羨ましいと思った事は何度もある。けれども、その関係の中に入って行こうと思った事は一回もない。ここにいる二人以外にもう一人、その関係の輪の中に入る人がいるのだけれど、その輪の中には三人しか入れないのである。つまり、既に定員は埋まってしまっているのだった。……そんな場所に無理矢理入りこんだって、素敵な事は一つもないだろう。素直にそう思うから、自分は自分で彼らと、彼と。別の関係を築き上げてきた。その判断は間違っていなかったと、今でも思う。
間違っていなかったから、毎日がこうも明るく楽しいと感じられるのだろう。
そんな事をつらつらと思いながら何となく時計に視線をやると、針は部活終了予定時刻を思いっきり無視した位置に止まっていた。
それはもう、思わず絶句してしまうほどに。
「……」
これは……どうするべきだろう。未だ孔明とホウ統の将棋の試合は終わる気配を見せていないというのに、アナログ時計はとんでもない時間を指している。
どうして今まで気付かなかったのだろう。確かに二人の対局に見入っていた。けれども、だからといって一回も時計を見ようかなと思わなかったわけが無く。
ふっとその思考に至るその度その度に、時計を見るのは後でも出来るけれど二人の対局は今しか見れないからと、言い訳をして見るべき物から目を逸らしていた事に激しい自己嫌悪を覚える。……覚えながらも、これからどうするべきかを考える事にする。
まず、彼らの対局をどういう形であれ終わらせなければならない。それは確定事項だ。そうしなければ二人が帰らないし、自分も帰り辛い。問題は、どうやって終了させるかなのだが……やはり、自然終了を待つしかないのだろうか。
自分では妨害することなど出来そうにないし。
思いながら、月英が軽く吐いた頃。
「あれ?お前らまだ帰ってなかったのかよ?」
がら、と音を立てて教室のドアが開いた。
そこからひょこりと除いた顔に、一瞬瞬く。
「徐庶、先輩?どうして学校にいるんですか?今日は用事があって部活休むって……」
「いや、用事は終わったんだけどさ……ちょっと忘れ物思い出して。それで一回戻って来たんだけど、そしたらまだ明るい教室が見えるんだよ。しかもそれが将棋部がいつも使ってる教室だときたらそれはもう、見に来なきゃいけないだろ?」
「あ……えぇと……すみません」
苦笑交じりの徐庶に返す言葉を謝罪以外に思いつかなかった月英は、思ったままを口にして、頭を下げた。見に来なければならないと思わせたという事は、心配をかけたという事とだいたい同義語だろう。ならばやはり、謝るのは自然な流れだった。
それから頭を上げて。教室に入り、ドアを閉めて、こちらにやってきた徐庶に事情を説明する事にする。
「実は、孔明先輩とホウ統先輩の対局がずっと続いていて……それを止める気になんてなれるわけがありませんし、私自身見入っていましたから、こんな時間になっていると気付く事も出来なくて……」
「最終下校時刻を大幅に超えていた、と」
「……はい」
「月英ちゃんが委縮する事無いって。これは孔明とホウ統が悪いな」
「でも……二人とも集中してるんですし、気付けという方が難しいのでは?」
というか、今もしっかりと二人の世界に閉じこもっているし。
直ぐ傍で人が話しているというのに、それに反応一つ見せない彼らの集中力は最早人の理解を超えている様な気がする。困った、と顔を歪めて、改めて徐庶に助けを乞うような視線を送る。
それを受け止めた彼は、よしきた、と言わんばかりに頷いて、胸元から鋭くとがった鉛筆を二本、取り出した。
「さぁ、そろそろ現実に帰って来てもらうか」
そして、にやりと笑みを浮かべた徐庶と、その被害者となる孔明とホウ統から視線を逸らし、月英は両の手を静かに合わせた。
とがった鉛筆の使用法なんて、突き刺す以外に何があるというのでしょう。